5日目 ウィーン歴史地区(世界遺産)

                      王宮(ホーフブルグ)
モーツアルトが生きた(1756〜1791年)18世紀の後半のヨーロッパは、ウィーンを中心にハプスブルグ家が繁栄した時代、女帝マリア・テレジア(在位1740〜1780年)の統治による安定した時代でした。
1648年の30年戦争の終結後1789年のフランス革命まで大きな戦争のない比較的穏やかで平和な時代でした。
建築や美術は曲線模様と華やかな色彩あふれるロココの時代、音楽はバッハ、ヘンデル、ハイドンという大音楽家が現れた古典派の時代に、モーツアルトはその仕上げのように現れ古典派音楽を大成させて去っていきました。
ウィーンは「音楽の都」といわれ、郊外にはブドウ畑が点在するウィーンの森が広がり「森の都」ともいわれるようになったのです。

新王宮

礼拝堂のミサとウィーン少年合唱団


王室礼拝堂


ウィーンはハプスブルグ家の王宮を中心に開けた都です。
1273年一族のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に推され、ボヘミアとの戦争に勝ちウィーンをはじめとするオーストリアの土地にハプスブルグ家の基礎を築きました。
次にブルゴーニュ公女マリアと結婚したマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝在位1508〜19年)が「戦は他にまかせよ、汝幸あるハプスブルグ家は結婚せよ」との家訓のとおりに政略結婚で権勢を広げました。
ウィーンでの初見学は王室礼拝堂にて、ミサに参加し、ウィーン少年合唱団の歌声を聴きました。
前ページで書いた映画『菩提樹』や『野ばら』、その後『青きドナウ』を見てウィーン少年合唱団にはまりました。
日本でのコンサートに参加したこともありますが、念願叶ってのウィーンでの生合唱を体験することができました。
合唱団の創立は1498年と古く、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世によって創られた少年聖歌隊が前身で、第一次世界大戦の集結でハプスブルク王朝も終焉を迎え、少年聖歌隊も解散の危機に立ちましたが、1924年にオーディションで会員を集める合唱団となり、制服も士官候補生の服からセーラー服に変わりました、もう500年以上の歴史があるのですね。
歌の方もミサ曲中心から、レパートリーも増え、各国の民謡等も歌い、今も世界各地を訪れています。

この日も朝から雨模様で、王宮礼拝堂は上の写真で十字架の付いているところで、傘をさして入り1時間余り参加できました、ちょうどこの日は日曜日で良かったです。
私達はミサ参加がツアーに組み込まれていて、9時15分より始まりました。
チケットは中々取れないそうで、また席によって値段が違うそうで、5〜30ユーロだそうです。
室内に入れない方にはテレビ中継がされ、ここには少年合唱団の姿が写ります。
私達は1階奥のほうで、ウイーン少年合唱団は3階でしたから姿は見えません、もちろんオーケストラも入っています。
ミサですから、神父さんのお説教もあり、私達も献金をしたり祈ったり、その後聖歌隊のミサ曲が始まり、響き渡る歌声に、ハプスブルグ家の時代を偲ぶことができました。 まさに天使の歌声に魅了されました。(笑)


王宮裏側


新王宮
王宮はハプスブルグ家の歴代皇帝の居城です。(旧王宮の正面からの写真がなく、残念です)
13世紀に建築が始まり20世紀まで増改築が繰り返され、部屋数2600余といわれています。
現在公開されている「皇帝居館」フランツ・ヨーゼフ1世夫妻の部屋22室、「銀器・食卓調度コレクション」「シシィ・ミュージアム」があり、それら一部を見学しました。
宮廷生活を嫌って放浪の旅を続けたシシィ(エリザベート)が、生活の拠点とした王室です。
自身の部屋、寝室、化粧室兼体操室、化粧台が当時の状態で展示されています、エステやダイエットの先駆けの人という感じで、ぶら下がり棒があったり、細いウェストのドレスが展示されていました。
また銀器・食卓調度の豪華なコレクションも見ることができました。
旧王宮の先には新王宮(右上)があります。
新王宮はフランツ・ヨーゼフ皇帝の命で1881年に建設が開始され、1913年に完成しました。
新王宮の前には対トルコ戦争で20万人を越すオスマントルコ軍を撃退した英雄プリンツ・オイゲン公の巨大な騎馬像が立っています。

英雄広場カール大帝像その先の塔は市庁舎

ブルク門
そのオイゲン公の騎馬像の向かい側・英雄広場にはカール大公の騎馬像が立っています。(右上)
皇帝フランツ1世の弟で、オーストリア軍を指揮してナポレオンと戦った将軍です。
右上のブルク門はナポレオンに勝利したことを記念して1824年に造られた、王宮と新市街を結ぶ門です。
第一次世界大戦の戦没者や対ファシズム運動の闘士らが祭られています。
美術史美術館


美術史美術館と向かい合い対になるものとして自然史博物館があります。
ここには、ハプスブルク家が数百年に渡って収集してきた美術品が展示されています。
この博物館は、フランツ・ヨーゼフ皇帝のウィーン改造計画の一環として1871〜1891年にかけて建設されました。
ウィーンでは、帝政が続き、その間に革命が無かったので、ほとんど全ての美術芸術品が2次大戦の戦火から保護されました。
レンブラント、ルーベンス、フェルメールの貴重な絵画コレクションも、「農民画家」のブリューゲル(「バベルの塔」)もあり、必見の価値ありですが、私達は中には入りませんでした。

昼食 

          
        レストラン           ウィンナーシュニッツェル           ザッハー・トルテ(風?)  
街中の素敵なレストランでウィン名物ウィンナーシュニッツェル(薄切り豚肉のカツレツ)を頂きました。
薄いので食べ易いのですが大き過ぎです。(笑)
上の写真は外から窓辺を撮ったのですが、室内の真ん中にも薔薇が活けてありました。
ヨーロッパのカフェ文化はこのウィーンが発祥の地で、18世紀の末にはウィーンには約200軒ものカフェがあり、そこに芸術家達が集まり、音楽家だけでなく、絵画、建築と幅広く集まり、アール・ヌーヴォーという世紀末の新しい芸術が花開いたそうです。
ザッハー・トルテの本家本元・オペラ座裏手にあるホテル・ザッハーの中にあるカフェ・ザッハーに行く予定でしたが、街中を見学しているうちに、閉店してしまいました。
ヨーロッパは8時ごろまで明るいので時間の感覚が分からなくなります。(笑)

シェーンブルン宮殿(世界遺産)
ハプスブルグの栄華の極みの宮殿で、シェーンブルンとは『美しい泉』という意味の離宮です。
ハプスブルグ家の狩猟の森に建てた夏の離宮で、1696年レオポルト1世の時代に建設が始まり18世紀マリア・テレジアの時代に完成しました。
マリア・テレジアはこの宮殿を居城にすることに決めて、ピンクの壁をイエローに塗り替え、マリア・テレジア・イエローといわれるようになりました。
オーストリアではこのテレジア・イエローはよく見かけました。
大庭園の周囲には庭園、ネプチューンの泉、馬車博物館、大温室、動物園、グロリエッテなどがあります。
かつて6歳のモーツアルトがピアノを弾き終わって、マリア・テレジアの膝に飛び乗ったという大広間、そして大理石の床で転んで助け起こしたマリー・アントワネットに「ボクのお嫁さんにしてあげる」と言ったと・・・伝説になっています。
そのハプスブルグ家絶頂期のよき時代の面影を感じることが出来ました。
また、本当に馬車がお似合いの光景で、優雅な時代を感じさせてくれます、もっとも市民はその分苦しんだということも言えますね。
どこまで引いてカメラを構えてもシェーンブルン宮殿は大き過ぎて全体を撮ることは出来ません。(笑)
両翼の端から端まで180mあり、正面右側には宮廷劇場があるとか、私達は中の見学はなく外から見るだけでした。
また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテという見晴台のような建物があり、ここからは周囲が一望できるそうで、ガイドブックなどにはここから撮られた全景の写真が良く載っています。
この見学中に空が明るくなり青空が覗きはじめ、旅行に来て以来はじめてのことでした。

ベルベデ−レ宮殿
ベルベデーレとはラテン語で『美しい景色』という名の宮殿です。
オイゲン公が1716年離宮として下宮(住居用)を建設し、1723年に宴会用の上宮を建て、その間をつなぐなだらかな丘に美しい庭園を配し、上宮下宮間の斜面に広がるバロック庭園の眺めの美しさが有名で 世界10大美景と言われているそうです。
本当に絵葉書のように綺麗で、ちょうど晴れ上がった青空が、贅沢すぎる空間を一層その美しさを際立たせてくれました。
またオイゲン公の死後、この宮殿はハプスグルク家の所有となり、女帝マリア・テレジアは、娘マリー・アントワネットがフランスのルイ16世の元に嫁ぐ時、この宮殿で送別会を開いたそうです。
今は上宮は19〜20世紀の絵画館、下宮はバロックの美術館です。

大きな門

  建物中央にオスマン公の紋章(2頭のライオン)が見える

スフインクス(上体は女性像で下はライオンの像)

下宮に向かって広がる庭園

リンク周辺 (自由行動)


市庁舎(ブルく劇場のリンクの前)
昼からはオプションの「ウィーンの森」と自由行動に別れ、私達ともう一組だけが自由行動でした。
私達は最初ウィーン5泊を計画していたぐらいだったので、せっかく来たウィーン市内を離れるのが惜しくて、トラムを利用して市内の見学をすることにしました。
ウィーンはかつて城壁に囲まれた小さな町で、その後外敵からの牽制がなくなり当時の皇帝フランツ・ヨーゼフがウィーン改造計画の一環として市壁を撤去し市域拡大・改修美化の動令を出したそうです。
その壁跡が環状の道路になり、市庁舎、市立公園が出来、その周辺に次々と美しい建物が出来たようです。
上の地図で城壁跡の赤い輪をリンクといいトラムが走っています、観光にとても便利です。
右上の写真は王宮側から見た壮麗な建物の市庁舎で、尖塔は市外からでも目立ち、ミラベル庭園からも遠くに見ることが出来ました。
トラム(路面電車)

リンクを回っているトラム

街中にあるモーツアルトの看板
リンクは全長約4Kmで1周約30分。
周りの景色を見ながら、「次ぎ降りよう」と決めることができ、待てば次が来ますし、その間歩いても次の駅までそれほど距離はありません、時計回りが1番線でその逆が2番線となっています。
24時間フリーパス5ユーロで、乗り降りしながら街を見学するのが便利だと思います。
今年はモーツアルト生誕250年なので街中挙げてのモーツアルトの宣伝に遭遇しました、この年に来た値打ちを感じました。(笑)
私の大好きなモーツアルトの音楽は純粋で煌びやかな音色を放ち、その綺麗な旋律が心に染入ります。
どんな説明よりも、モーツアルトの音楽を聴くのが一番ですが、歴史上の芸術家からのモーツアルト評はよく理解できると思いますので、いくつか載せようと思います。
これはNHKが生誕250周年に際して「毎日モーツアルト」という番組で、モーツァルトの主要作品を年代順に1日1曲ずつ約1年間に渡って紹介した番組で取り上げられたものです。
ウィーンには多くの芸術家が集まり、モーツアルトと交流のあった人もいます。(『』内は引用文)

1、ベートーヴェン
『常に私は自分をモーツァルトの崇拝者のひとりと考えています、これは生涯変わることはないでしょう』

2、ブラームス
『今日では私たちはもうモーツァルトのように美しくは書けない、できるのは彼が書いたのと同じくらい純粋に書くよう努めてみることだ』

3、ピョートル・チャイコフスキー
『私がこれほどモーツァルトを愛するのは、生の喜びが表現されている音楽に安らぎと慰めを求めていればこそです』
私達は実際は先に郊外にあるミュージシャンの墓地へ行ったのですが、モーツアルトの歴史を追いながら進みたいので先にリンク周辺の紹介です。
聖シュテファン寺院

シュテファン寺院(前)

シュテファン寺院塔、建物の奥に見えるのが北塔
ウィーン中心地にそびえ立つシンボル的存在で、800年以上の歴史を誇るオーストリア最大のゴシック建築教会です。 北塔60.6mへはエレベーターで、南塔136.7mは途中まで階段で登れるそうです。
美しいモザイク屋根が特徴で、右の上の写真はハプスブルグ家の紋章の鷲の絵柄のモザイクタイルです。 
地下にはハプスブルグ歴代皇帝の内臓を納めたカタコンベ(地下墓地)があり、一般公開されています。
また、この寺院でモーツアルトの結婚式と葬式が執り行われました。

シュテファン広場、先に見えるのはペーター教会
モーツアルトは1777年ドイツのマンハイムで初恋といえる女性アロイジ・ウェーバー(二女)に出会います。
彼女はソプラノ歌手で、プリマ・ドンナの彼女のためにモーツアルは沢山の歌曲を書き、また彼女の親のウェーバー一家に寄宿するのですが、振られてしまいます。
モーツアルトが25才でウィーンに来て、やはりウェーバー家に下宿し、26才のとき、三女でアロイジの妹のコンスタンツンツェ19才との結婚へ発展していきます。
父に許しを請うのですが、その返事がこないまま、1782年8月4日シュテファン大聖堂で結婚式を挙げます。

シュテファン広場の先に見えるのはペーター教会です。
ウィーンで2番目に古い歴史ある教会です。
この通りがメインストリートのケルントナー通りです。
またこの広場は観光馬車フィアカーの待合場所になっていて、中世的雰囲気が残っています。
フィガロハウス

シュテファン大聖堂のすぐ近くにあります。
モーツアルトがもっとも華やかで経済的にも満ち足りた生活をしていた、1784年から88年まで住んだ家です。
オペラ「フィガロの結婚」はここで作曲されたことから、「フィガロハウス」と呼ばれています。
6階建てで、モーツアルトに関するあらゆる展示物を見ることが出来、自筆の手紙や楽譜を見学しているうちに、つい時間を掛け過ぎ、王宮庭園のモーツアルト像や市立公園のヨハン・シュトラウスの像を見る時間がなくなりました。(『』内は引用文)

4、リヒャルト・シュトラウス
『モーツァルトの旋律はすべて地上の姿かたちから解放され、死すべきものと不死のものの間を漂う』

ベートーヴェンの記念碑 バルク劇場
ケルントナー通りを進み、リンクのトラムに乗り車中から写真を撮りました。
ドイツで生まれたベートーヴェン(1770年生)も1786年にウィーン旅行中にモーツアルトに会い教えを受けています。
その後22才の時にウィーンに移り住みました。
ベートーヴェンが暮らしていたパスクヴァラティ・ハウス(黒い屋根)が建っている、その前に彼の記念碑が立っています。(左上写真)
右上はブルク劇場で、かつての皇室王室劇場で、現在もドイツ語圏の演劇界で最高権威を誇る劇場です。
ちなみにモーツアルの「フィガロの結婚」はバルク劇場で初演されました。
左下は建物の正面にアテネの泉、知恵の女神が立っているギリシャ神殿風の国会議事堂です。
右下は国立オペラ座です、1869年にモーツアルトの「ドンジョバニー」で幕を開け、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、カラヤン、カール・バームなどそうそうたる指揮者が音楽監督を務め、2002年9月には日本の指揮者小澤征爾さんが音楽監督に就任し話題になりました。
国会議事堂 国立オペラ座

リンク外へ

リンクを回っているトラムよりも一回り小さい感じのトラム71番線に乗り、中央墓地へ向かいました。
右下の写真が車内の様子で、左2席、右1席で、左側にあるダークグレーのボックスにチケットを自分で差し込んで刻印します。運転手さん一人ですが、無賃乗車する人はいないのでしょう。
アナウンスがあるのですが、聞き慣れないと文字と一致させるのが難しく、郊外へ出ると人も少なく、英語は通じないので少し緊張しました。(笑)
車内の表示と、停車駅の駅名とを照らし合わせて中央墓地第2門で下車すると、大きな門とその右側には花屋がありました。
中央墓地(ミュージシャンのお墓)

左上の写真は右側の門のみで、左門は離れていて大き過ぎるので写りません、それもそのはず敷地面積ではヨーロッパ最大級で、240haに約300万人の墓に芸術家墓地 だけでも 約1000人 が眠っているそうです。(1874年開園)
右上の写真は門を入り、この墓地のメーンストリートで、正面に見えるのはカール・ルエガー教会です。
この教会に向かって少し歩むと左手側に32A区「楽聖特別区」を見つけることが出来ました。
ただここにモーツアルトの墓はなく、モーツアルトはサンマルクト墓地の共同墓地に墓堀人によって埋められ、その場所も遺骨も定かではなく、サンマルクト墓地でも、ここではないかという場所に墓(記念碑)が置かれているそうです。
サンマルクト墓地にも行く予定だったのですが、時間的に断念しました。

モーツアルトは結婚後もオペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」などの初演が大成功し、そして順調に交響曲39番,40番,41番と名作を書き続けましたが、晩年は借金を繰り返し、妻も病気がちで転地療法を繰り返し、返済が滞ったそうです。
1791年『魔笛』の初演を行い、「レクイエム」執筆中、12月4日35才の若さで亡くなってしまいました。
妻のコンスタンツンツェの浪費癖、またモーツアルトのお墓を知らないこと等、「世界3大悪妻」の一人と言われる所以かもしれませね。

「楽聖特別区」とモーツアルト記念碑
左に見えるのはベートーヴェンの墓、右はフランツ・シュ−ベルトの墓


モーツアルト記念碑(高さ3m以上)
レクイエムの楽譜とハープを抱えた乙女の像

5、文豪ゲーテ(『』内は引用文)
『モーツァルトのような現象はどうにも説明のつかない奇跡だ、悪魔は人類をからかうためにときどき魅惑的な人物を生んでみせるのだ、その悪魔が音楽の分野に生んだのがモーツァルトだった』

6、フランスの文豪、スタンダール
『天才の魂がこれほど裸で現れたことはなかった、私が生涯に本気で愛したのは チマローザ モーツァルト シェイクスピアだけである』

    
     ベートーヴェンの墓            フランツ・シュ−ベルトの墓          ブラ−ムスの墓
そしてブラームスの自画像のある墓、ヨハン・シュトラウス(父・子)、チェルニー、サリエリ、そしてスッペ、シェーンベルクの墓もありました。
サリエリと言えば、 モーツアルトの死因にはっきりとした説がなく、その死因にからめて、サリエリとモーツアルトを非凡と天才との対比と合わせサスペンスタッチで描いた映画が「アマデウス」です。
背景に流れるモーツアルの曲がとても素敵です。
舞台「モーツアルト」は才能と人間モーツアルトとの葛藤を大司教、家族を交えて展開するストリーで、私もよく観劇します。
ヨハン・シュトラウス(父・子)の墓石のすぐ後ろ側の並木道が、映画「第三の男」のラストシーンで使われた印象的なシーンです。これを、うっかり見過ごしたのは残念でたまりません。
「第三の男」はウィーンの話ですし、石畳や観覧車もウィーンで撮影され、「アマデウス」は前述しましたが、ウィーンの話ですが、中世の街並みが残っているということで、プラハで撮影が行われました。
「アマデウス」のDVD  幼少期のモーツアルト 青年期のモーツアルト

ケルントナー通りで夕飯(ホットドッグ)を食べ、オペラ座もライトアップされ、すっかり街中も夜の景色となりました。
ガイドさんに心配を掛けてもいけないので、地下鉄に乗り、9時過ぎに前日と同じホテルに到着しました。
ウィーーンは街中もとても綺麗で、安全にも思えるのですが、唯一地下鉄では、たむろしている人も多く、はじめて少し危険を感じました。
また「ウィーンは街そのものが博物館」といわれるのを実感しましたが、博物館、美術館、劇場等すべて外から眺めるだけしか出来なかったので、また機会があれば、是非とも連泊したい街でした。

これは余談ですが、ガイドさんの話で、バス内に大歓声が起きました。
それはオーストリア共和国は、1955年の共和国成立時から、永世中立国を宣言していて、右へも左へもつかないのですが、東西冷戦中もその立場を堅持していたことは私達にもわかります。
この年私達が訪れたのは5月末ですが、すぐ6月上半期米EU議長国の集まりがあった際に、アメリカのブッシュ大統領がウィーンで1番の歴史と風格のあるインペリアルホテルにその宿泊を申し込んだところ、すでにミック・ジャガー一行が同時期に宿泊の予約が入っていて、ホテル側はブッシュさんの方を断ったそうです。
それで、アメリカ大統領の方が、目と鼻の先のインターコンチネンタルホテル(近代的)に変更したそうです。
それでガイドさんが、「ウィーンは永久中立国でしょ、どちらにも付きません」そしてオペラ座通りに差し掛かった時に、「こちらミック・ジャガーさんのインペリアルホテル、あちら(一角奥)はブッシュさんのインターコンチネンタルホテルです。」と案内があった時、何故か皆さん手をたたいて大歓声です。
もちろん、すでに歓迎準備に入っている両ホテルにエールを。 というエピソードでした。(笑)

 


Czech、 Austria & Hungary   Czech、 Austria & Hungary  Czech、 Austria & Hungary   2006・5・24〜6・1

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