4日目 ザルツブルグ(市街の歴史地区・世界遺産)
モーツアルトが歩いたザルツブルグ


旧市街地(緑のドームはザルツブルグ大聖堂、左黒屋根はレジデンツ)
中世の繁栄を色濃く残す街並みのザルツブルグ。
ザルツブルグとは「塩の城」という意味で、ザルツァッハ川(塩の川)を積み出し拠点とし、ザルツカンマーグートは「塩の貯蔵庫」とし、塩の産地として古代(紀元前1000年)から莫大な富を築いた街です。
後にローマ人による統治になりザルツブルグがその重要地となり、「北のローマ」と呼ばれる街(旧市街地)が出来ました。
7世紀には廃墟となりその地にルドルフ司教が修道院(現サンクト・ペーター教会)を建てたことから大司教領域となり歴代の大司教が財力を基盤に栄華を誇りました。
17世紀には現在の街並みがほぼ完成しました。

大司教の権勢を示すようにそびえているホーエンザルツブルク城から撮った写真で、ザルツァッハ川の手前が旧市街地で、川向こうが新市街地です。


モーツアルト広場と生家


モーツアルト像

ゲトライデガッセ通り
旧市街地の中心にモーツアルト広場があり、17世紀に設けられました。
モーツアルトの銅像は1842年に没後50年を記念して建てられました。
右上にモーツアルトの生家のあるゲトライデガッセ通りが見えてきました、一番賑やかな通りで、いつも観光客で賑わっています。
ザルツブルグは音楽の街として馴染みが深く、かつてリヒャルト・シュトラウスやカラヤンなど著名な音楽家たちが滞在した街で、また観光客に「モーツァルト」や『サウンド・オブ・ミュージックの町』としても親しまれているそうです。


モーツアルト博物館

ザルツブルグが生んだもっとも偉大な人物、神に愛でられし子・ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトの生誕250年にその地と生家を訪れる事ができました。
1756年1月27日モーツアルトはこの家の4階(窓の開いているところ)で生まれ1773年(17才)まで住んでいました。
現在は博物館として4階に子供の頃使用した楽器、楽譜、家族の肖像画などが展示されています。
上から紅白の布が下げてあり歴史遺産の目印となっています。
モーツアルトは天賦の才を持ち、5歳で既にハープシコードとバイオリンを見事に演奏し、目隠ししてキーボードの難曲を弾いて王侯達を唸らせました。
子供の頃から難しいソナタ形式の作曲を手がけ、出来上がったものすべてが神性といわれるほどのものでした。
そして彼の35年の短い生涯に626曲に及ぶ作品を作り、それはあらゆるジャンルにわたり、オペラ、ミサ曲、交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノとバイオリンのためのソナタ、弦楽四重奏曲、ピアノ・ソナタ、アリア、管弦楽による舞曲集、種々の管楽器のための数多くの小晶、幻想曲などが含まれています。
ただ神童と言われる天賦の才能を持ちながら、その在命中に世の中から酬いられることはありませんでした。
モーツアルトの生家
ザルツブルグの宮廷のバイオリン奏者のレオポルト・モーツアルトの子として生まれ、父は早くから息子の才能を見出し、演奏旅行に連れて行き、モーツアルトの才能に父の生涯を掛けました。
1762年6才の時オーストリア女帝マリア・テレジアの御前で演奏し、大評判になりました。
その翌年から父や姉とともにドイツ、フランス、イギリス、オランダへの演奏旅行に出て、神童として各地で大絶賛を浴びます。
1769年から1773年に掛けてはイタリアの旅に出ています。

青空市場

モーツアルトの家(上の黄色の家)の後ろの広場にも青空市場があります。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、子供達とピクニックに行く前に立ち寄り、マリアがトマトを配って子供が落としてしまうシーンがあります。
いろいろな果物や野菜類がきれいに並んでいます、左上の写真は唐辛子のお店です。

祝祭劇場

祝祭劇場

祝祭劇場前からザンクト・ペーター教会の塔とザルツブルグ城
世界中から音楽ファンが集まるザルツブルグ音楽祭の会場(毎年7・8月)となる祝祭劇場です。
その長さが225mもあり、大劇場、小劇場、メンヒスベルクの岩を利用して造られたフェルゼンライトシューレ劇場があり、「サウンド・オブ・ミュージック」で、音楽祭でトラップ一家がエーデルワイスを歌った場所でもあります。
小劇場は「モーツアルト・ハウス」と改名され、2006年7月23日オープン予定で、現在(5月)改築中でした。
観光用の馬車が走り、趣がありその当時へタイムスリップしそうです。
またこの奥のカラヤン広場の先に、「馬洗い池」という馬の水のみ場があります、「サウンド・オブ・ミュージック」でも出たシーンです。
ザンクト・ペーター教会はバロック、ロココの絵画が描かれています、「サウンド・オブ・ミュージック」で、ナチスに追われお墓に逃げ込むシーンはこのザンクト・ペータ墓地で、撮影されました。
この2ヶ所は是非行きたいと思っていたのですが、残念ながら歩き回っているうちに頭から抜けてしまいました。(笑)

ザルツブルグ大聖堂とレジデンツ



ザルツブルグ大聖堂





市場の向こうにレジデンツが見えはじめました
ザルツブルグ大聖堂はヨーロッパ最大規模の聖堂で、緑の屋根の大ドームは下からは大きすぎて写真が撮れません。
お城から見下ろすと、旧市街地の中央に位置しているのが分かります。
ヨーロッパ最大の6000本とも言われるパイプオルガンがあり、モーツアルトが洗礼を受け、1779年からオルガン奏者を務めたところです。
レジデンツは大司教の館で、6歳のモーツァルトが大司教の前で御前演奏をした会議の間、皇帝の間,騎士の間、戴冠の間など見学ができ、となりは、レジデンツギャラリーになっていて、レンブラント、ルーベンスなどの絵画が収められています。

ホーエンザルツブルグ城



街並みを見下ろすようにそびえ立つザルツブルグ城

旧市街地を見下ろす

城砦の地図


ホーエンザルツブルク城塞は 1077 年に大司教ゲプハルトによって建てられ、その後増築を行ったもので、完全な状態で保存された中央ヨーロッパ最大の城塞です。
こうしてこの地を治める領主は大司教が兼ね、モーツアルトが住んでいた当時は、大司教はコロラド伯で絶対的な権力を持っていました。
モーツアルトは多くの制約を加えられ、音楽に理解のない大司教とはたびたび対立し、その支配下から逃れウィーンへと旅立つのです。
1781年、ウィーンに滞在中のコロラド大司教はモーツアルトをザルツブルグに連れ帰そうとして一層対立は深まり、モーツアルト25才の6月にはザルツブルグと決別してしまうのです。

城砦の中の建物

見張り小屋と城砦

大砲が街を見据えています

市街と反対側に見えるバイエルンアルプス
ケーブルカーで城砦へ登りました。
もうそれは素晴らしい眺望で、360度にため息が出るほど素敵な光景が展開します。
旧市街地の反対側は、郊外の住宅地がずっと向こうまで広がり、湖に面した正面玄関が映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中でトラップ男爵邸として使われたレオポルズクローン宮殿も写真の真ん中辺りに見えます。
そして、ドイツ側にそびえるドイツ・バイエルンアルプスの山々が望め、素晴らしい眺望の広がる城砦です
モーツアルトの家


モーツアルトの家



街中モーツアルト一色です
左上はザルッァハ川を渡り、州立劇場の前にあり、モーツアルト一家はゲトライデガッセ通りの家が手狭になり、1773〜1781年ウィーンへ移住する25才まで住んでいた家です。
モーツアルトはここで沢山の名曲を作曲しました、その楽譜や使った楽器が展示されています。
また写真には写っていませんが、この右隣の家が、ドップラー効果で知られるところのドップラーの生家(3階)と教わりました。
指揮者カラヤンもすぐ近くに生家があるということで時代は違ってもザルツブルグ出身の偉人達は近所です。
右の写真はモーツアルト一色のお店のディスプレイで、すべて商品ですがやはりチョコレートが一番多いようです。

ミラベル宮殿・庭園


公園よりザルツブルグ城を望む

噴水とミラベル宮殿(逆光ですね)
ミラベルとは『美しい眺め』の意味だそうで、庭はギリシャ神話を基にした彫刻を並べ、花で飾られ、遠くにホーエンザルツブルグ城を望む素晴らしい光景です。(新市街地側にあります)
この宮殿はヴォルフ・ディートリッヒ大司教が愛人サメロ・アルトのために造った宮殿で、その後回修され、火事により消失し、その後復元され現在の形になりました。
「サウンド・オブ・ミュージック」で、マリアと子供達が「ドレミの歌」を歌い遊ぶシーンが蘇ります。
上の噴水の周りをドレミの歌にあわせながらV字にスキップをしていくところです。
大司教が城を持ち、いくつもの宮殿を持って愛人に住まわせるというザルツブルグのみに当てはまる権力の絶大さは、塩が生み出した財力によると言えるので、大陸なだけに貴重な塩を実感する事が出来ました。(笑)
マリアと子供たちが走りながら通り抜けるバラのトンネルです。
右上はミラベル宮殿裏庭にある「ペガサスの噴水」で、このまわりを周ってドレミの歌を歌います。

この写真は「ドレミの歌」のフィナーレの有名な階段シ−ンで、階段を音階に見立てて、子供たちが飛び跳ねて、上がったり下がったりしていたシーンです。

この日は結婚式があり、私達が来た時、宮殿から仲良く花婿と花嫁が出てきて撮影をした後、家族友人と一緒に階段に並んで記念撮影です。
その終了を待つ時間がありませんので、遠くから撮りました。(笑)
映画「サウンド・オブ・ミュージック」の実話の後日談ですが、トラップ大佐とマリアの間にも、1男2女を儲け12人の大家族となり、亡命先のアメリカで「トラップ・ファミリー合唱団」として活動し、1949年にマリアは「トラップ・ファミリー合唱団物語」(サウンド・オブ・ミュージック)を出版します。
その後ドイツが西ドイツでの一家の活躍を描いた「菩提樹」が映画制作(1956年)され、その続編も出ます。
この『菩提樹』をリバイバルかな?小中学生の頃に見て、ウィーン少年合唱団の「エーデルワイス」他の歌声に心射抜かれ、この頃からウィーンは私の憧れの地になったのを思い出しました。(笑)
その後「菩提樹」はアメリカでミュージカル化され舞台でロングランヒットとなります。
20世紀フォックス社が映画権を獲得し、「王様と私」の脚本を手掛けたアーネスト・レーマンが脚本執筆、「ウェスト・サイド物語」のロバート・ワイズが監督製作、「エデンの東」のテッド・マーコットが美しいザルツブルグの街並とアルプスの背景を撮影、映画界ではまだ無名だったのジュリー・アンドリュース(28歳)が大抜擢され、1965年大ヒット映画となります。
私も大好きな映画で、ザルツブルグは未だ映画そのものの光景が広がるので、大感動しました。(笑)

皇帝列車「インペリアル・アマデウス号」にてウィーンへ



車内の壁についている双頭の鷲の紋章
ハプスブルグ家の紋章
1891年プラハのFranz Ringhoffer & Smichovによってハプスブルグ皇帝専用列車が造られましたが、9両のうち1両だけが第一次大戦での破壊をまぬがれ、プラハの技術博物館に展示されています。
その列車を復元したのが「インペリアル・アマデウス号」で、今回EXCELSIORという列車で、最も良い車両に貸切で乗ることが出来ました。
ザルツブルグ中央駅を18:05発、ディナーを頂きながら3時間半の列車の旅となりました。
当時を再現した車内の様子で、車両の中央に一段と高く半円に囲まれたコーナーがあり、右上の写真で2席あり、私達もラッキーにもそこに座ってディナーを頂く事が出来ました。
豪華な雰囲気で車窓を眺めながらの旅となりました。
オーナーのRieckさんもこの車両でディナーされ、色々とお話を伺うことができました。
右上の写真の中央に鏡が写っていますが、実際にエリザベートが使用した鏡で、ハプスブルグ家のオークションで手に入れたそうです。その前で、オーナーと一緒に撮影しました。(笑)
オーナーはオーストリア連邦鉄道の最年少機関長になり、退職後車両を買って商売をはじめたそうで、連邦鉄道にレールの使用料を払って走らせているそうです。
また車内の装飾や木彫りにお金を掛け、20人の職人が6ヶ月掛け、1両に100万ドルが掛かっているそうです。
1キロ16ユーロ支払い、1台5500ユーロで、90万とメモにあります。
雨が降り続く中、一路ウィーンを目指します。
私達は列車ですが、モーツアルトの時代は馬車で今の何倍もの時間が掛かったことでしょう。
舞台「モーツアルト」で、コロラド司祭が道中馬車を止めて囲いをつくり、所用を済ませるユニークなシーンがありますが、思わず色んな苦労があっただろうと想像してしまいました。(笑)
当時は馬車とドナウ川の船旅を乗り継いで20日間掛かったそうです。
私達は3時間半でウィーン西駅21:33着でした。
写真はこの列車のオーナーのRieckさんで、58歳だそうです。
近隣国(ドイツ、フランス、イギリス等)からのお客さんも多く、それこそドレス姿で見とれるぐらいでした。
私達は遠くから旅行中ということもありワンピース姿の方が多かったですが、私は黒のハイネックシャツにベストとスカートという地味系でした。
もっと露出したほうがいいようですが、何分慣れないもので衣装がありませんでした。(笑)
でも下のディナーは楽しく、赤ワインとともに優雅に揺れながら頂きました。(笑)
     
    前菜                     肉料理                         デザート

ホテル

     
       ホテルの部屋               広いです                  ホテルの朝食(パンがとっても美味しい)
ウィーンでホテルRENAISSANCE WIENに宿泊、中が広くて驚きました、傘を広げて乾かしました。(笑)
ホテル着が10時過ぎですから、交互にお風呂に入り、明日は天気になるように願って12時前に寝ました。
昼食はザルツブルグの新市街地のレストランで中華料理を頂きましたが、何故か?写真を撮らなかったようで1枚もありません。

 


Czech、 Austria & Hungary   Czech、 Austria & Hungary  Czech、 Austria & Hungary   2006・5・24〜6・1

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