1日目   東京(成田)発アムステルダム着


飛行機の出発時間は10時25分ですが、集合は8時20分と朝が早いのは仕方ありません。もっとも私達は成田前泊なので楽勝ですが、前回の2年前の出発の時、第一空港と第二空港とを間違えてしまいました。
それは、第一空港行きのホテルのバスに乗ったのですが、親切なバスの運転手が第二空港行きの乗客を乗せてしまい、先にそちらに寄ったのを、私達は当然目的地と思い込みさっさと降りて中に入ってしまったためでした。(^^;
その後、タクシーに乗り、運転手が距離が短過ぎるとしぶるのを頼み込んで?有無を言わさずかしら?移動してギリギリ間にあったという経験があるからです。
今回は友人とお互い頼ることなく、念には念を入れて確認しようと話し合いました。
その分、念を入れ過ぎたのでしょうか、前日1ユーロ=138円だったのですが、慌てずに両替しましょうと本日に持ち越したら、139円と円安になりました。(笑)
取りあえず、3万円分を両替し、210ユーロの所持金です。

左の飛行機の写真は帰りにオランダで撮ったもので、行きも帰りもKLM機直行便です。
離陸2時間後、機内食(昼食)で「ポークか?パスタか?」と聞かれ、ポークを頼みました。
薄い照り付きの焼肉3枚に、下に焼きそばのような茹で麺が、なんとも言えず不思議(茹で過ぎ?)な味がしました。
マカロニサラダにケーキ、チーズに小さいチョコ、ライ麦パンにコーヒーが付きました。
このパンが意外と美味しかったので、パンはある意味、食事を判定するよい基準になりますから、楽しみな旅になりそうです。
飛行中はジュース(リンゴ・オレンジ)・烏龍茶・日本茶・イングリッシュティー・コヒー・アイスorカップ麺と出てサービス満点でした。
エコノミー症候群で騒がれてからは会社側も乗客も随分と気を付けるようになりましたね。
運動のビデオも流れ、それに随って私達も腕を上げたり、足を回したりしました。(笑)

 飛行時間はちょうど12時間です。
乗る前に友人は本を2冊、確かこの商品はどういう利用価値があるか?という本で、私は映画鑑賞をするつもりなので1冊、村上龍の「長崎オランダ村」を買いました。
当然オランダに掛けてなのですが、登場人物のところで以前読んだ同じ作者の「69」に出てきた人も再登場だったのが決め手でした。(日本へ帰ってきたら、「69」が映画化されていて驚きでした。)
友人は2冊を完読、私はやはり読みはじめて程なく映画に熱中です。(笑)
「Love actually」9人の恋物語「Free&easy・13」日本映画、後1本まだ日本語訳がなく近未来アクション物を英語で観ました。
日本映画「Free&easy」は何の題名だと思われますか??ヒントは13話目です。
これだけで当たれば、あなたは凄い!!賞品をプレゼントしたいぐらいですね〜(笑)
 
実は「釣りバカ日記」です。(笑)
これは「お気楽!?」ってことでしょうか?(笑)
でも本当に疲れないお気楽な映画でした・・・そうこうしている内に着陸2時間前の軽食です。
今度はライスorパスタ(必ず片方はパスタ)と聞かれ、グラタン風タマゴライスにしました、これにマフィン、コヒーにミントガムが付きました。中々美味しいでした〜。


アムステルダム着15:10(日本との時差サマータイムなので7時間・実質8時間)
スキポール空港はヨーロッパの中で、ヒースロー、フランフルトに次ぐ第3位の大きささの空港です。
しかもワンターミナルと言うことは前述の私達の第1だ第2空港だの失敗はないという便利な空港といえますね。(笑)
しかも広くて、自然光を取り入れて明るく、大変な賑いで、さすがヨーロッパの玄関と言われるわけです。
その点、日本の空港がとても暗く(照明かな?)感じられました。

また、エアポートシティとも呼ばれ、色んな設備(サービス施設・コミュニケーションセンター・カジノetc)があり、それ自体が街として発展・進化を遂げているそうです。
夕飯の用意はないというので、私達もさっそくこの空港内のスーパーマーケットで食べるものを買いました。
それで、枕チップとトイレ代の小銭が出来ました。


外はとても寒〜〜〜く、気温12℃、現地の方はコート類に革ジャンスタイルです。
冬の終わりか、春の始まりと言う感じでどんよりと曇り、いかにも北海に来たというお天気でした。
ここで、現地ガイドの方からオランダでは変わりやすい気候と乗り物の時間は当てにならないから・・と教わりました。
その通り、ホテルまで小雨交じりの天候に、バスが20分遅れで到着でした。
またスキポール空港の名前が血(スキ)の海(ポール)と言う意味だと教わりました。
何でもスペインが支配していた時に、争いが起こりこの地域一体が血の海となり、それが地名になったそうです。

1日目の宿泊地は郊外にある町ハーレムで、空港から15〜20分で到着です。
アメリカのハーレムの地名はここから取られたそうです。
結構広めの部屋です、でも写真のように毛布1枚で、寒さを心配をしたのですが、スチームが通り部屋は暖かでした。
1日が24時間+7=31時間という長い1日で、現地時間9時を過ぎても外は明るく、太陽が沈む前に私達の瞼が沈没してしまいそうです。(笑)
寒いのに何故にサマータイム?(3月〜10月)と感じたのですが、日照時間が長く夜の10時ぐらいまで明るいようです。
さっそく軽めの夕食を取り、寝る支度にかかります。
これが、オランダでの初めての買い物で、私達の夕食です。
オレンジジュース
サラダ(オリーブの実とチーズにドレッシングがマッチして美味しいでした)
チーズ類
合計で4ユーロぐらいだったと思います、レシートがあったのですが・・・今は行方不明です。



  2日目  ザーンセ・スカンス→フォーレンダム→アムステルダム


ホテルを出てガイドのYさんと合流です。ヨーロッパ(だけではないと思いますが)ではツアー観光には現地のガイドをつけるという決まりがあり、英語または日本語の話せる方がつくので、現地在住の日本人の方に出会う機会がありました。
今回2人の在住日本人主婦に出会い、生活感に溢れたお話を聞く事ができ一層楽しい旅となりました。
Yさんは60才ぐらいで、御主人の転勤に付いてオランダに来られて20年です。
その間ご主人の会社が倒産し、日本に帰っても仕事があるか分からず、オランダに残り仕事を続けられたそうです。
こんなところにもバブル崩壊の余波というか、こういう世界に出ておられる先端にこそ大きな影響があったのでしょうね。
今ではご主人は定年を迎えられ年金暮らし、望郷の念がつのり、うつ状態です・・・と明るく冗談のように仰ったのです。
ただ2年前まではオランダを離れても、年金を送付してもらえたそうですが、制度が変わりオランダに在住しなければ年金はもらえなくなったそうです。
それ故に日本に帰ることが出来ないのですね、もっとも「もう親もいませんし家もありません、こちらには子供達がいますので・・・」と言われ、切り替えの出来る女性は強いな〜と感じました。(笑)
オランダで観光客を迎えるのは、花の時期の3月から6月の半ばまでで、「私も季節労働者です」とガイドさん、その後は時給8ユーロでオランダの方と共に働いていますと言われました。
参加者の中にバート仲間4人のグループがあり、即ざわざわと日本円に換算している声が起こり、「千円を超えてる・・、私ら6ユーロかな?」と羨む声に爆笑です。
そういう現実を忘れに来たのでは・・・、という私もさっそく換算して、私は*ユーロかな?負けてる?と・・(笑)
でも、Yさん、1ユーロ=130円で換算されていたようですから、昨年は120円台でしたが、今は円安が続いていますね。
年金にYさんのパート収入を合わせて、オランダ社会では中の上かな、と言われ、それでも税金等を引いた3分の1を家賃が締めるそうです。


ザーンセ・スカンス


朝から、雲行きが悪く今にも雨が降りそうなお天気で、ガイドYさんの判断で先に遠い(アムステルダムの北約15キロ)のザーンセ川沿いに行きました。
国土の4分の1が海面下のオランダでは、「世界は神が創ったがオランダはオランダ人が造った」というぐらい水との闘いの連続だったそうです。
それに国名のNetherlandsというのは低地と言う意味です。
湖沼や低湿地が多く、人々は水を風車で汲み上げ干拓地にしたのです。
川は海に流れ、その水は海面に等しく、人々は土手の下に暮らしています。
左の道路は川の土手の道で、下に水路と大地が広がります。
当然、家も道路もその下にあり、この川を船が行くと、車や家の上を船が通るという、錯覚では?というような光景を実体験できました。

北海から吹く風は強く、それを利用した風車は、1時は全土に9000基あったそうです。
このザーンセ川には今、5基の風車が残っています。
風車で緑豊かになった国土は見渡す限り広く、山一つなく(干拓地ですから当然です)広がり、牛に羊が放牧されていました。
川辺にはレースフラワーが咲き乱れていました。
こちらでは風車の中を見学しました。
粉引きや油取りに使われ、これは炒った落花生をこの大きな木の車で引き、それを布袋に入れたものを更に絞って油にしていました。(勿論風の力で)
絞りかすは洗濯板のように固まり、これは牛のえさになるそうです。
風車の外側(2階)で見ると、羽も大きく、風の力で回る勢いに驚きました
また、茅葺で出来ているので日本人として親しみを感じました。
オランダ人の年間チーズ量は日本の10倍だそうです。
広い草原ではいたるところで放牧された牛を見ました。
左はチーズ作りです。
隣のチーズ店ではオランダの帽子を被った様子が見れました。


川辺には色んな植物が茂り、水路では羊やアヒルがゆったりと過ごしていました。
この水路の水が畑の高さ(水位)を保っているそうで、雨の多い時は運河に流し(汲み上げ)調整するそうです。
昔から、湖底や沼地での畑作業に利用されたのが木靴です。
水がしみこまず、むれないし、廃棄もた易く環境に優しい靴として利用され続けています。
材料となるポプラや柳の木も豊富ということです。
この中で、今は機械による制作を見学しました。
日本語は話せないそうですが、解説は流暢な日本語でユーモアたっぷりでした。
外側を削る機械はドイツ製
内側を削る機械はフランス製
そして仕上げはオランダ製と、
草刈鎌のような鎌で、それはオランダ人による手削りでした。(笑)
この解説は丸暗記でしょうか・・・(笑)
店内には天井から、壁とあらゆるサイズの木靴が下がっています。
もっとも、このような色彩つきは観光用で、作業用は木のままです。
持ってみると想像以上に軽く、日本の昔の木のサンダルを思いだしました。
ただ、カランコロンと大きな音が出るのは同じくです。(笑)
この地を後にする頃は、青空が広がりはじめました。
それ以降、オランダを去るまで快晴の天気が続き、当地の方達も変わりやすい天気が当たり前の地には珍しい出来事と言われました。


フォーレンダム

アムステルダムから北へ13キロ昔からある漁港の町です。
今は北海に面した湾が堤防で繋がれ、アイセル湖となっています。
表紙の地図で、大きな湾が白い道路で繋がれています。
まさにオランダは人が造る国ですね。
果てしなく広い水面は海そのものです。
海の側なので、風が強く雲が動き、太陽は見えませんでした。冬場はこの湖は凍り歩いて対岸に行けるそうです。
みやげもの屋が並びます。
それぞれの店の特徴を現した看板が上がっています。
真ん中はダイヤモンド、はさみや木靴の形もありました。
この地方では、民族衣装の大きなレースの帽子に、黒いスカート、カラフルな色のエプロンを付けた女性の姿が見れるそうです。
湖の堤防に面した家並です。
道路に面しているのは1階ではなく、2階、3階部分です。
ということは、1階は水面より低いわけで、こちらでは見慣れた光景ということになります。                    こちらからも出入りは出来ますが、車は下の道路を通ります。              



アムステルダム




オランダは九州ぐらいの大きさで、人口が1千5百万人で人口密度は高いそうです。
アムステル川にダム(堤防)が出来て栄えた街・アムステルダム(首都)はこの中央駅を中心に扇形に広がる運河の多い街です。
16世紀に海運が盛んになり貿易港として栄え、17世紀には東インド会社の本拠地が置かれ世界の貿易の中心となったそうです。
この駅が東京駅のモデルとなった赤レンガの建築物です。(パスの中から撮りました)

上の正面から見るほうが似た雰囲気です。
中央駅の両側に2つの塔ががあり、右が時計塔で左が風向計とオランダらしいですね。

ガイドさんにー風と水と自転車の街・アムステルダムーと教わりました。
写真にもある様に至るところに自転車があり、自転車道も整備され、白地に赤い文字の専用標識があり、トラム(路面電車)の次に自転車が優遇されているそうです。
私達も路上に降りると、「自転車に気をつけて!」とガイドさんにうるさいぐらいに言われました。(笑)
車の排気ガスは温暖化に繋がり、北極の氷河が溶ければ水位は上がり、それこそオランダは半分が海に沈むと切実な問題となるわけです。
中心地アムステルダムは人口が多く、持ち家は少なく、街中の瀟洒な一戸建ては数千万から1億円はするそうです。
細い家がびっしりと立ち並び、その分この運河にも水上生活者の船が並んでいます。
船の家ということで住所もあり、運河を動くことはないそうです。
今は隻数も一杯で、隻数は増えず、空いた船があればそこに住めるそうです。
大きさにもよりますが、数百万から1千万円ぐらいだそうです。
鉢植えを置いて花一杯にしたり個性的な船もありました。
「北のベニス」といわれるだけありますね。
街の家の壁の最上階に近い部分に腕木(うでぎ=かぎ)が付いています。
これは間口が狭く階段が狭いので、ここにロープを掛けて荷物や家具を吊り上げて入れるためです。
白い破風も家々によって飾り(ライオンの顔とか)がありました。
アンネ・フランクの家
ユダヤ人の少女アンネ・フランクがナチスの目を逃れてドイツからアムステルダムに移ったが、第2次戦争が起こりオランダはドイツに占領され、ここでもユダヤ人の弾圧にあってしまうのです。
一家で1942年からこのプリンセス運河(写真上と同じ)沿いのオランダ家屋(お父さんの仕事場)に隠れ住んだ建物です。
真ん中の3つの窓の4階建て+地下の奥に隠し部屋(3・4階部分)がありました。
2年間潜伏生活を送り、1944年ナチスに連行され 解放前にチフスで亡くなります。(15才)
ジャーナリストを夢見たアンネは自分の日記に、共に暮らす人々や自分を取り巻く状況を素直に書き付けたのです。
その隠れ家の部屋は今でもそのままアンネ・フランク財団によって保存されています。
その手前の建物は展示室とされここから隣のアンネの家に入ることが出来ます。
この日も高校生でしょうか、写真のように入口で並んび、いつも人が絶えないと聞きました。
日記にも書かれていますが、当時のアンネも聞いたであろう西教会のカリヨンの音が私達の耳にも聞こえました。

アンネの家の前の道路から撮りました。
アンネはこの塔を屋根裏部屋から見ることが出来たのでしょうか?
世界が平和であることを願わずにはおれません・・・
西教会前にあるアンネ像です。
下に花が捧げられていました。
まだ陽は降り注いでいますが、この時すでに6時を回っていたと思います。
オランダの人々は時間が来れば、従業員であるよりか個人重視で、さっさとオフィスを後にするそうです。
会社も店も閉まるのが早いですね・・(笑)
この写真は路上のゴミ箱に、象の鼻のような大きなホースでゴミを吸い込み、収集している公務員の姿です。
オレンジ色の制服で、夜でも街の清掃で働いていました。日本とは逆の感じがしました。(笑)
食事


今回、パンが中々美味しいので食事の写真も撮ることに決めました。
これまでヨーロッパでの朝食は、パンにコーヒー、あってベーコンと卵ぐらと、いわゆるヨーロッパ式が多かったのですが1日目のホテルは朝からアメリカ式の豪華版でした。しかもやはりパンが美味しい(笑)
ただ写真で、昼、夜が寂しく感じるのはメインディッシュのみの写真だからです。
この前に大抵、サラダかスープ、パンに食後のデザートが付いています。
水は日本と違い、出ませんので飲み物を各自注文します。
好きな方は昼からビール、ワインの方もいますが私達は大抵ジュース類かコーヒーで3ユーロぐらいに納めました。(笑)
ホテルは前日と同じホテルに2連泊です。

        
                                    夜・ニシンのグリル(19:30) 


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2004.5 オランダ・ベルギー紀行1日目・2日目
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