愛に飢えた子供たち 〜留加の場合〜


 留加とその母

私が初めて見た光一さんのドラマは、1994年の「人間・失格」です。
このドラマは、OA当時、残酷ないじめシーンや、KinKiの二人のキスシーンが話題となったものですが、私の印象に残ったのは、いじめシーンでもなくキスシーンでもなく、留加とその母のシーンでした。
今思えば、どの場面だったのでしょうか、留加と小与が部屋の中で、日常的な会話をしていた場面のように記憶しています。
この頃は私の子供がまだ中学生と高校生で、私も何かと忙しく、テレビも落ちついて見るということはなく、常に何かをしながら片手間に見ていました。
そのせいか、この場面を見ただけで、私は、てっきり二人が母子相姦の間柄だと思ってしまいました(^^;
前年の野島さんのセンセーショナルな話題作「高校教師」の中に、父と娘の近親相姦があり、それがインプットされていたのかもしれません。
ただそれほどに、この美しい親子が、美しいがゆえに妖しく背徳的な雰囲気を醸しだしていたのです。
光一さん演ずる留加には、闇に咲く白い花のような色気がありました。
小与には、聖女と娼婦という相反するものが感じられ、それはご本人自身がそういう雰囲気の荻野目慶子さんが演じていたからでしょうか。
この二人が母子相姦なら全然けがらわしくなく、また逆に、最高にエロティックな感じすらします。

ところが、このドラマでは、私の早合点とは裏腹に、留加は母に愛されていない子供でした。
最近は、母親が子供を虐待し殺してしまうという悲惨な事件が相次ぎ、母親であっても我が子を愛せない、ということは珍しいことではありません。
その原因は、母親自身の中にあるようです。
小与の場合は、どうだったのでしょうか。私は小与の人生を想像してしまいます。
田舎の小さな町で生まれ育った小与は、優等生で清純な少女でした。
でも、そんな彼女の内には秘められた熱いものがあり、それがある男に激しく恋をし妊娠するという形になりました。
だが、その男は不誠実な人間で彼女をもて遊んだだけであり、小与を捨てて行方も分からなくなってしまったのです。
中絶するということが不可能な状況で、子供を生まざるを得なかった小与は留加を生み、そして留加を母親に預け、自分は東京に出てきて一人で生活を始めました。
留加は望まずに生まれてきてしまった子供であり、まだおそらく10代だった小与の人生の足かせとなるものでした。
また、自分を捨てた男への憎しみから、小与には留加を愛することができなかったのでしょう。
初めての恋に深く傷ついた彼女は、その後も純粋な恋愛をすることもなく、今は妻子ある男の愛人として、男に依存しながら分不相応な家で暮らしています。
そんな小与が留加を呼び寄せたのは、年取った自分の母親の要請かもしれず、あるいは頭のいい美しい少年に成長した留加をアクセサリーのように、自分の身辺に置きたかっただけなのかもしれません。
また、留加はどんな幼年時代をおくってきたのでしょうか。
おそらく、旧弊な田舎の町の人は、ふしだらな娘が生んだ子、父親のいない子と後ろ指をさし、留加を育てた祖母はそれを気に病んで、いつも彼に愚痴を聞かせ、普通に孫を可愛がるということはなかったのでしょう。
留加は、早熟で感受性が鋭く、また非常に頭のいい子でした。
誰にも愛されず受け入れてもらえない自分というものを認識し、孤独の中で読書にふけり、さらに静かに孤独の闇の中に沈んで行ったのでしょう。

そんな留加が、母親に呼び寄せられて一緒に暮らすことになったときは、どんなにうれしかったことでしょうか。
「自分は母にとって必要な人間なんだ」と、生まれて初めて思えたときだったでしょう。
ところが、母は留加を本当には愛していたのではなかったのです。
小与は一見、穏やかで優しい女性です。
留加にも優しく接し、きちんと母親としての世話はしていました。
殺人を犯した衛も、「一言、許すと言ってほしい」と、あたかも聖母マリアのような慈しみを彼女に求めている、そんなたたずまいの女性です。
しかし、小与の中には魔性の女とでもいうべきものが、時折垣間見られます。
愛人の男に見せる媚、新見への接し方、衛の妻の夏美の嫉妬をかりたてるような言葉、何よりも 思春期の少年の前で、平気で愛人とベッドを共にする女です。
そういった魔性のものは、彼女の男性に対するトラウマから来ているものかもしれません。
小与は、望まずに母になったのであって、母として生きるより女として生きる女でした。
誰しも、幼い頃は、親というものは絶対の存在であって、無意識のうちにも強く親から愛されることを願っているものです。
ましてや、男の子にとって、母とは永遠の女性とも言うべきものでしょう。
小与のように美しく優しい母は、留加にとって誇りであり、聖なる存在のはずでした。
しかし、小与は、彼の前であからさまに女としての姿を見せつけます。
それが、どんなに深く子供の心を傷つけることか、彼女の気持ちは子供には向いていないので、それに気づくこともありません。
留加ほどの感受性の強い繊細な少年が、どれほどの深い傷を負い、深い絶望感にとらわれたことでしょうか。
「僕は、やはりママには必要とされていないんだ。僕は、ママから愛されていない。」
そう認識したとき、留加には自分の存在自体が否定されていると感じたはずです。

幼い子供にとっては、親(あるいは、親に代わる人)から愛されることだけが、自分の存在の証です。
愛に飢えた子供は、愛されることだけをひたすら求めます。
自我が目覚めるまでは、愛されたい一心で、親を怒らせまいと、親の顔色を伺い、従順になり、自分自身を押し殺します。
甘える、ということもしません。というか、甘えることができないのです。
甘えることができるのは、相手がその甘えを受け入れてくれるからです。
留加も母親に、甘えることもせず、反抗的な態度もとりませんでした。
そのかわりに、母親の部屋に盗聴器をしかけるとか、愛人の男の車を傷つけるとか、隠れて陰湿なことをしています。
留加が小与に、「母親面するのはよしてくれ!」と反抗的に言うのは、誠が屋上から落ちたあとです。
誠という母親に代わる愛する対象を見つけ、「初めて呼吸したんだ」という自己解放の感覚を経験したからでしょう。
それでも、すぐに「ごめんなさい」と謝っています。無意識の悲しい習性ですね。
ですから、小与にはまだ事態がつかめませんでした。
誠が死んだあとに初めて、留加は母に対して暴力を振るいます。
しかしそのときにも、それが何を意味するのか、小与には、まったく理解できませんでした。

心の傷ついた子供、自分のアイデンティティを見出せない子供は、二つの行為に走ります。
一つは自傷行為です。
自殺や、手首を切るなどの自殺未遂行為、売春や無差別な性行為もその一つではないかと思います。
もう一つがその反対の、他者を傷つける行為です。
家庭内暴力や、他人への暴力・殺人、動物虐待、そしていじめです。
どちらも、自分を受け入れてくれない人間への復讐と、自分の存在をアピールするためのパフォーマンスだと思います。
留加の場合は後者でした。
誠が転校してくるまでの、ウサギ殺しや、和彦へのいじめは留加がやっていたのです。
頭のいい子ですから、優等生の仮面をかぶって、他の子たちに命令してやらせていました。
命令されて、言いなりにやる子達も、それぞれ何か満たされない心を持っていたのでしょう。
ただ、ウサギの血をシャツに塗って横たわり、あたかも死んでいるかのような姿を母親に見せたのは、仮想的な自殺でしたね。
母がうろたえ、心配してくれるのを望んだのでしょう。
彼の心が悲鳴を上げている、そのSOS信号をキャッチしてくれ、というアピールでした。
でも小与には、それは伝わらず、ただ「驚かせないで」と言うだけです。
このときの言い方もそうですが、小与が留加に話しかけるときは、いつも小与の方が逆に留加に甘えてるような口のきき方でした。
もともと、荻野目さんは甘い声で優しい物言いをする方ですが、留加に対しては、それが強調されているようで、この母の子に対するあり方が印象付けられます。
留加も、「ふふふ」と笑うだけで、その笑顔の陰にどれほどの心の痛みが隠されているのか、なんともミステリアスな表情で、それがいっそう哀れです。
いじめをしても、留加の心の傷は癒されるはずはありません。
他者を傷つけたからといって、自分が幸福になるわけではないからです。
「頭の中に蝿がいる」というその蝿とは、「お前は誰からも愛されていない。」「お前は存在価値のない人間だ。」という、自己否定のささやきだったのではないでしょうか。



 留加と誠

愛されない子供も、成長すると、自分が愛されることを求めるかわりに、自分が誰かを愛することで、心のバランスをとろうとします。
新見が留加を愛したように、留加は誠を愛するようになりました。
留加は、なぜ誠を選んだのでしょうか。
まずその前に、私は、この留加の愛を少年愛(同性愛)だとは思っていません。
野島作品というのは、他の作品でも、話題作りというか、かなり意表を衝く、悪く言えばあざといものを入れてくることが多いようですが、この留加と誠のキスシーンなどは、その典型的な例ではないでしょうか。
余談ですが、このキスシーンをKinKiの二人が演じたことによって、光一と剛を同性愛にあてはめるファンが現れた(または、増えた)のではないかと思います。
何年か前に、そういう小説や漫画がたくさん書かれていて、ネットで公開されたり、コミックマーケットなどで売られているのを知ったときは、びっくりしました。
そういう小説や漫画を愛好するのは、その人の趣味と嗜好の問題ですから、それはそれでかまいません。
ただ、KinKiの二人がそれをウリにしてるような、また、それをファンサービスと心得ているような感じが見受けられるのは、ちょっといやな感じがします。
その原点が「人間・失格」だったのではないでしょうか。

しかし、留加は同性愛者ではありません。
それは、誠が現れるまでは、千尋に好意を抱いていたことでわかります。
ただし、千尋は清純な女性だったから好意を持てたのであって、母の女として部分を嫌悪している留加にとっては、カラオケで自分からキスをしてくるような淫らな女は、憎しみの対象です。
これは、新見にも全くあてはまることであって、彼も女(母)というものに幼児期のトラウマを持っているようです。
そのためか、やはり深く傷ついた孤独な人間であって、そのまま大人になったものだから、彼の他者への攻撃はさらに激しく罪深いものです。
誠をいじめる教師宮崎も、やはり女性に対するトラウマがありそうです。
女装することでそれが癒されそうでしたが、それを暴かれたために、いじめの対象だった誠をさらにいじめて悲劇を生みました。
新見は、同じ傷ついた魂を抱えた留加を愛することで、心のよりどころとしようとしましたが、その留加に拒絶されたあとは、千尋を愛そうとしています。
彼もまた同性愛者ではなかったのです。自分の心を癒すために、愛する対象がほしかったのでしょう。
留加が誠を愛したのは、誠が自分と同じように繊細で感性豊かな人間であり、誠の中に、自分と同じ孤独な魂を感じとったからではないでしょうか。


しかし、留加と誠では、決定的に違うところがありました。
それは、誠は両親に充分に愛されていた子供だったということです。
誠は、たっぷりと愛情をそそがれて、幸せな幼年期を過ごしてきたことでしょう。
彼に不幸が芽生えたのは、自分を心から愛してくれた最愛の母が亡くなり、父親が再婚したときからです。
父親が再婚した若い妻夏美は、優しく善良な心の持ち主で、誠を可愛がってくれました。
父もまた、変わらぬ愛情を誠に持ち続けていました。
それでも、子供にとって親の再婚というのは、多かれ少なかれ、心を傷つけられるもののようです。
亡くなった母親を愛していればいるほど、誠にとって、父親の再婚は裏切りのように感じられ、自分が見捨てられたような気持ちでいたと思います。
それが、善良で優しい義理の母とのいさかいとなって現れていました。
義理の母の方をかばう父は、もはや子にとっては味方ではないのです。
家庭の中で孤独を感じていた誠が、学校でクラスメイトや教師にいじめられることによって、さらに孤独になりました。
いじめを受けている子供は、親に心配をかけまいという気持ちから、そのことを親にはなかなか言いません。
また、言っても、親がそのことをなぜか理解してくれないこともよくあることのようです。
誠の場合もそうでした。父は、学校へ行きたがらない誠を、頭ごなしに叱ります。
誠が、自分は誰からも理解されない、誰も味方になってくれないという絶望感にとらわれたとき、留加は誠に同じような自分を重ねあわせ、誠を強く愛するようになりました。
宮崎から執拗ないじめを受け無抵抗な誠の姿に、留加は初めて、自分だけが庇護し愛を与えられる対象を見出したのでしょう。

しかし、そういう留加に嫉妬した新見の陰謀で、母小与の合成したヌード写真を作ったのが誠だと思い込まされた留加は、一転して激しく誠を憎みます。
自分が愛した相手からの裏切りであるということと、自分にとって聖なる存在である母を汚されたこと、また逆に、自分が嫌悪している女としての母を暴かれたこと、それらがないまぜになって、留加は今まで以上の人間不信と絶望感にさいなまれたことでしょう。
留加は、誠に対して残酷ないじめを行います。
自分では手を下さず、陰で命令していたに違いない留加が、冷ややかに無関心を装っているのは、さらに冷酷な感じがします。
クラスメイトに殴られ植え込みの中に倒れこんだ誠が、薄れていく意識の中で見た留加。
薔薇の花に縁取られ、絵のように美しい顔と無表情なまなざし。
留加が美しいからこそ、一層残酷に見えるようです。
ただこのときに、誠は「何かが僕を殺そうとしている」その何かが、留加の憎しみだとはっきりと悟ったはずです。
それほどの憎悪を抱いていた留加が、屋上に追い詰めた誠を、最後になって手を下すことができなかったのは、なぜでしょうか。
悪意に虐げられ、生きる気力を失っている絶望的な誠の姿に、自分の姿を見たからかもしれません。
手すりを乗り越えた誠には、すでに自ら命を絶とうという意思がありました。
必死に手を差し伸べ、「こっちへ来い」「この手につかまれ」と言う留加の気持ちは、もはや誠には伝わりません。
自分をここまで追い詰めたのが留加の憎しみだと知っていたからです。
二人の気持ちがすれ違う悲劇です。
このときの留加の、静かにささやくような誠への呼びかけ。
魂を振り絞るような心の叫びに聞こえます。
そして、自ら落ちて行く誠へ「よせ!誠!」と叫ぶ留加の声とその顔は、あまりにも悲痛でした。
留加は、束の間得た自分が愛する者を、自分の手で葬り去ってしまったのです。
その後、母にも初めて反抗的な態度をとり、ひとり涙を流す留加の顔は、痛々しいほどに深い絶望感をあらわし、凄絶なまでに美しいものでした。



 留加の再生

誠が死んで、留加はまた、果てしない孤独の闇の世界に取り残されてしまいました。
その闇におびえる、弱々しい小さな子供です。
ずたすたに切り裂かれた心を抱えた留加は、ひきこもり、母親に暴力を振るい、自分の頭を机に打ちつけるという自傷行為もします。
心が傷ついた子供がする全ての行動をするわけですね。
それでも、母も教師の千尋も、留加を理解せず、彼を救うことができませんでした。
皮肉にもそんな留加を理解していたのは、留加をそこまで追い詰めた新見だけだったのです。
そして、留加に求愛して拒絶された新見は、悪魔のようにささやきます。
「君は愛する大場誠を殺したんだ。それなのに、なぜ君はまだ生きているんだ? 死ぬがいい。」
そんな新見の言葉に導かれるように、留加は死を決意します。
床に手をつき、じっと一点を見つめる顔が、はっきりとその決意をあらわしていました。

学校の屋上から飛び降りようとするときの長い独白は、留加の血を吐くような心の叫びです。
「そばへ来ないで下さい。動脈を切ります。」と言うときの気迫。
そして、生まれてから今までの心の苦しみと、誠を失った絶望感を切々と語ります。
何度見ても、胸を締め付けられるような悲しさと切なさを感じる場面です。
夜の闇の中に、留加の黒い瞳がきらきらと映ります。
でも、その瞳には、深い悲しみと諦観があらわれています。
淡々とした静かな口調も、哀切です。
この期に及んでも、留加は母に愛されない子でした。
小与の「ママを困らせないで」という言葉が、あからさまにそれを語っています。
死のうとしている子に「死なないで」と叫ぶのではなく、小与には「自分を困らせないでほしい」という自己中心的な考えしかありませんでした。
その母に、留加は静かに「僕が生まれたことを喜んだ人はいなかった。お祖母さまも、そしてママ、あなたも、周りのすべてが僕の存在を恨めしく思っていたんだ」と語ります。
そう自分を認識したときの、留加の心の痛みはどれほどのものだったでしょうか。
切羽つまった小与が、「ママは、あなたのことを愛しているのよ」と言っても、その言葉はあまりにも虚しいものでした。
留加はその言葉に心動かされることもありません。
しかし、振り返って、柔らかな表情で、「あなたが僕を引き取りたいと言ったときは、ほんとうはとてもうれしかったんだ」と言います。
留加が、生まれて初めて母への愛を訴える言葉だったでしょう。なんと哀れなことでしょうか。

死んで、留加は生きる苦しみから救われるはずでしたが、刑事に取り押さえられて死ぬことはかないませんでした。
そんな留加が、さらに逃げ場を求めたのが、赤ちゃん返りでした。
苦しんで生きてきた今までの人生を捨てて、自意識のない赤ちゃんにまで戻ってしまおうということです。
また、そこから生き直したいという欲求もあったのかもしれません。
すっかり赤ちゃんに戻った留加は初めて、母に甘えています。
そして、小与は初めて母として目覚めました。
ただ、この小与が今までの贖罪のように、母としてだけ生きていこうとするのは、それが果たして本当に良いことなのか疑問が残るところです。
留加が、今後、改めて成長していくとすれば、それは再生するということです。
しかし、このまま、生きることの苦しみ、悲しみを拒否して、究極のひきこもりの中で人生を終えることもありうるわけです。
私としては、留加が再生して、人を愛し、愛される人生をおくってほしいと思います。
作者としてはどうだったのでしょうか。
留加の場合、作者も態度保留にしているのではないかと思われます。
新見は、見えない手によってホームから突き落とされて死んでいます。
憎悪と怒りと不安だけを抱えた彼の魂は救われることなく、新見の人生は終わってしまいました。
息子への復讐のために殺人を犯した衛は、刑期を終えて、妻と子の待つ暖かい家庭へ帰っていきました。
純粋で善意の人だったけれど愚かで弱かった千尋は、この一連の悲劇から、強い人として成長し、教師として真摯に生きています。
夏美は、ドラマを通して終始、健全な精神と判断力を持ち、惜しみなく人を愛する、理想の人間だったと思います。
その中で、留加は果たして、健やかな人間として再生するのか、わからないままです。
再生がかなわないとしたら、留加もまた人間として失格しているということでしょうか。



 留加と光一さん

演技者には二つのタイプがあると思います。
一つは、頭で考え、役柄を作り上げて行くタイプ。もう一つは、感性で演じ、その役柄にぱっと成りきれるタイプ。
光一さんはどちらかと言うと、感性タイプだと思います。
「天使が消えた街」や「ルーキー!」は必ずしもそうではないようですが、だいたいにおいて、それほど深く考えずに(失礼(笑))、すっと役に入り込めるタイプのようです。
6月のSHOCKで見せた白鯨の船長などは、大立ち回りの弁慶の直後で汗もしとどの状態なのに、狂気をおびた船長になりきって戦慄を覚えるほどでした。
この留加を演じるにあたっても、「留加をまったく理解できなかった」と、光一さん自身、この当時言っていますね。
確かに、こんなに哲学的な悩みを抱えた、精神のバランスの崩れた人間は、誰からも愛された幸福な子供時代をすごしてきた15才の光一さんには理解できなかったことでしょう。
それなのに、このときの光一さんの演技は、まるで留加が憑依したかのようです。
光一さんが、その後演じる銀狼や、甲斐も、幼児期のトラウマがあり、愛に飢えた少年です。
光一さんは、そうした心に傷を負った人間を演じるのが、実に上手い人です。
そういう人間を演じる光一さんの目は、愁いをおびて哀切です。
たたずむ姿は、心を閉ざし、他人を寄せつけまいとするかのようです。
無表情な顔つきにも、傷つけられた痛々しさや悲しみが滲み出しています。
あの端正な顔立ちが、逆にそういう翳りを感じさせるのでしょうか。
光一さんのように、暖かい家庭で育ち、あふれるほどの愛情を受け、固く心の絆の結ばれた親友もいる人が、なぜそんな心が傷ついた人間を表現できるのか不思議なところです。
それは、光一さんが天性の豊かな感性を持っているということなのでしょうね。

光一さんの演技は感性で演じるもので、憑依型といってもいいものですが、演技の質は淡白なものです。
いわゆるクサイ演技ではなく、感情もさらりと表現するタイプだと思います。(舞台の演技は、また違いますが)
台詞の言い回しもどちらかというと淡々としているので、それを下手だと評する人もいるようです。
私は逆に、それが台詞だけではあらわせない、その役柄の感情を際ださせて表現しているように感じます。
おそらく、光一さんは意識してのことではないと思いますが・・・。
踊るときの光一さんの目が、光一アイズとGacktさんに名づけられましたが、演技するときも光一さんの目の表現力は素晴らしいですね。
留加でも、哀しい目、切ない目、冷ややかな目、絶望した目、おびえた目など、あの美しい目が、いろいろな感情を訴えていました。

「人間・失格」は、光一さんの2作目のテレビドラマでした。
瑞々しくも鋭い感性で演じた留加は、15才の光一さんだからこそ演じられたものでしょう。
若い役者さんが、初めて大きな役を演じたときに、それがキャリアを積んで技術的に上手くなってからでは決してできない、最初で最後の巧まざる名演技ということがあるように思えます。
光一さんの留加も、そうした一生に一度しかできないものだったのではないでしょうか。

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